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<匠>職人の技 建造物
トップページ > 二十四孝

二十四孝物語の彫刻(彫刻より心を学ぶ)

 二十四孝(にじゅうしこう)とは、中国の元の時代に郭巨業(かくきょぎょう)という人が、家庭教育、特に幼児教育のため、二十四話の親孝行物語をまとめたものといわれています。 日本には儒教の教えとともに5世紀初頭に流入され、これが鎌倉時代末から南北朝時代にかけ五山の禅僧たちによって一つの文学として取り入れられ、室町時代の中期以降は、御伽草子の一編に加えられます。
 江戸時代の慶長年間(約400年前)に建てられた青井阿蘇神社一連の御社殿には、二十四話のうち六話が彫刻されています。当時建造された各地の御社殿に同様のものが多数見受けられることから当時の流行であったのか、またはこの御社殿を造営した相良20代藩主長毎(ながつね)は親との縁が薄かったといわれ、親孝行の物語を御社殿に取り入れ、人々に親孝行の大切さを示したかったのではないかともいわれています。

幣殿入口・・・「唐の婦人が姑に乳をふくませる」
幣殿入口・・・「大瞬(たいしゅん)が田を耕していると象と鳥がやって来て仕事を援する」
楼門(北東)・・・「郭巨(かくきょ)が黄金の釜を掘り出した場面」
楼門(南東)・・・「董栄(とうえい)を助けた天女が天上に帰っていく」
楼門(西南)・・・「朱寿昌(しゅじゅしょう)が老母とめぐり合った場面」
楼門(北西)・・・「老來子(ろうらいし)が幼子のまねをして父母の前で舞い戯れる」


  「唐の婦人が姑に乳をふくませる」

 唐朝の時に崔南山のお母さん(唐夫人)と呼ばれる人がおりました。彼女は毎朝御殿に走って行って、お乳を姑の長孫太婦人(唐の太宗の后)に飲ませたり、髪を梳かしてやるなど孝行を尽くしたといいます。 この長孫太婦人はお乳が大そう好物で、そのおかげで病弱だった体は、ご飯を食べなくても数年にして健康な体になられたといいます。
 数年後、いよいよ長孫太婦人がその死に臨み、親戚一門を前にこう言われました。
「私は嫁のおかげを受けました。この恩に報いることなく今死んでしまうことは誠に心残りなことですが、子々孫々に至るまで、親や先祖を大切にしてくれる心優しい嫁が来ると良いと思います。」


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  「大瞬(たいしゅん)が田を耕していると象と鳥がやって来て仕事を手伝う」

 虞朝の皇帝大瞬は、盲目の父に育てられました。生母は早くに亡くなり幼いときから後妻にあらゆる虐待を受けたといいます。また後妻の産んだ弟は放漫で、兄の大瞬を敬おうとはしませんでしたが、大瞬は何一つ不満を言わず、父母を尊敬し弟を慈しむのでした。 さて、歴山というところに先祖伝来の田畑がありましたので、ある日大瞬が畑仕事に精を出しておりますと、象をはじめあらゆる動物や鳥がやってきてその仕事を助けたといいます。
 彼の孝行心があらゆる動物の心までも動かしたのでしょう。
後に大瞬の孝行心は国中の人たちに認められ、この人ならば全てをまかせてもよいと、ついに堯帝(ぎょうてい)から帝位を譲られ、国を治めたのでした。


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  「郭巨(かくきょ)が黄金の釜を掘り出した場面」

 漢朝に郭巨という人がおりました。一家は老母と夫婦の三人で、たいへん貧しい中にも仲良く暮らしていました。後に子供が生まれ、益々生活は苦しくなりますが、老母は孫をたいそう可愛がり自分の食事を分け与えたりもしていました。老母は病気がちでしたが、お金がないので、医者に診てもらうことができません。夫婦で商いをしてもたいした儲けもなく、郭巨は老母に対し申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ついには子供がいなければ老母に一層の孝行が出来ると、子供を埋めてしまおうとさえ考え、とうとう子供を連れ出してしまします。涙を抑えて穴を掘り始めると、少し掘ったところで、黄金の釜を掘り出したのです。その釜には、これは天から郭巨に下さるものであるから他の人が取ってはならないと書いてあったそうです。
郭巨の親孝行に天が感動し、黄金を授けたのでしょう。


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  「董栄(とうえい)を助けた天女が天上に帰っていく」

 漢朝の時、董永という一人の親孝行息子がおりました。幼い時に母親を失いましたので、父親を養うため、人の使い走りや耕作の手伝いをして生計を立てていました。
父の死後葬式をあげてやりたいのでお金を稼ぐために自分の身を売ってそれを賄うのですが、この親孝行の評判が天上界の天女を感動させました。天女は地上に降りてきて、董永と結婚し、他家の手伝いをしたり、ひと月に絹織物三百匹(六百反)を織り上げるなどして、董永が借りていたお金をすべて返済したのでした。
 そして「私は天上界に住む天女です。あなたの孝行心にいたく感動しました」と言い残し天上に帰って行ったのでした。


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  「朱寿昌(しゅじゅしょう)が老母とめぐり合った場面」

 宋朝の頃、楊州(ようしゅう)に朱寿昌という者がおりました。
7歳のときに父母が離別し母を生き別れになってから50年が経過していました。神宗皇帝の時代、彼は官吏になりますが、いつも心の中では母親に再会できるよう念じ、ついには官吏を辞職し、故郷の楊州まで出かけて行きますが、その旅路は大そう困難で、とうとう道端に倒れてしまいました。ある人が介抱し理由を尋ね、朱寿昌が答えます。「母に会わせて下さい」こう言って朱寿昌は自分の血で経文を書き天に祈願をかけると、突然彼を取り囲んでいた群衆の中から白髪の老婆が駆け寄って来ました。
それは長い間思い続けてきた母親でした。二人は抱き合い再会を喜び泣きました。


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  「老來子(ろうらいし)が幼子のまねをして父母の前で舞い戯れる」

 周朝の頃、老來子という人がおりました。小さい頃から両親を養い、大そう親孝行な人でした。老來子自身すでに70歳を過ぎていましたが、両親の前では子供である自分が老人になっているという様子は見せませんでした。ある時、美しく色鮮やかな着物を着て幼い子供を真似て老父母に甘え戯れるふりをしている時、桶に躓き中の水をこぼしてしまいます。老來子が幼い子供のように大声で泣く真似をするものですから、老父母は思わず吹き出してしまい、笑いが止まらなかったそうです。
 老來子がこのような振る舞いをしたのは、両親がこの姿を見て自分たちが年老いたのを悲しまず、いつまでも幼い子を持つ親であるかのように若々しくあってほしいとの願いをこめてのことでした。


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青井阿蘇神社に見る職人の技
楼門 人吉様式 緋牡丹お龍の牡丹の刺青
社殿の八龍 二十四孝



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